どうもこんばんは、ループの螺旋階段です。ドラゴンズを語るシリーズの第2弾です。今回はナゴヤドームに本拠地が移転した1997年頃の話をメインに語りたいと思います。
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この記事の目次
ナゴヤ場最終年
話が若干前後しますが、1996年に星野仙一が監督に就任します。第一次政権時の1988年に優勝し、一旦高木守道を経由しての再就任。さすがに、第一次政権時は記憶がないので、私としてはNHKの解説者が監督になるのかー、くらいの印象でした。
1996年はナゴヤ球場最終年であり、ナゴヤ球場最後の試合で巨人の胴上げを目の当たりにした2位。この年は前回の記事でも書いたとおり、6,7番に本塁打ランキング1位と2位が並ぶという重量打線。2位とはいえ、2年前の僅差の2位というよりは5ゲームと言う差があっての2位でした。
星野氏というのは新しいものを積極的に取り入れるフットワークが軽い人物だと感じています。当時はまだまだ一部の人しか利用できていなかったインターネットを活用して、「星野戦記」という自分のホームページから試合後に情報発信をする、今で言うブログのようなことを行っていました。我が家にインターネット回線が繋がるにはあと2年の時間が必要です。ということで、この年の終わりに出たこの年の全記事が収録された本を買ったりしてました。
ナゴヤドーム元年
翌年の1997年からナゴヤドームに本拠地に移しての戦いが始まります。当時はまだまだドーム球場は珍しく、東京ドームと福岡ドームに次ぐ日本で3番目のドーム球場です。
ナゴヤドームでの絶望
ナゴヤドームは2018年の今ですら球界屈指の広さを誇りホームランが出にくい球場なわけですから、当時ではなおさらです。1番狭い球場から1番広い球場への移転。あまりに広いその球場では、長打力が自慢の恐竜打線は鳴りを潜め、逆にナゴヤ球場時代は目をつむれていた外野守備の脆さや機動力の低さが目に余るようになってきました。
チーム編成上、シーズン途中に戦い方を急に変えられるわけも無く、そのままズルズルと最下位をひた走りシーズンは終了。24ゲーム差の最下位、この年は本当に良いところが全く無かった記憶です。良かったことはレオ・ゴメスが入団した1年目で31本打ったくらいかなぁ。(※ただ、改めて調べてみると山本昌が沢村賞取ってるんですよね・・・)
レオ・ゴメスという希望
ナゴヤドームでありながら、入団初年度に3割30本を達成したスラッガー。そして、チャンスというか「ここで打ってくれんかね」という時に必ずと言っても良いほど打ってくれる選手でした。今でも私の歴代好きな外国人ではゴメスが1位です。
打ち方は足を殆ど上げずに強振するスタイル。打った後のフォロースルーも好きなんですが、それ以上に空振った時によろめきつつもバットを杖みたいにして立つ仕草がたまらなくかわいいのです。Youtubeで「レオ・ゴメス」で検索するとサジェストワードとして「空振り」が出てくることから、同じように思っている人が多数いる模様です。下の動画で空振りしたところも見れます。
調子が良い期間は髭をそらずに伸ばし続けるのがゴメスのゲン担ぎ。だんだんワイルドになってきたと思いきや、急にさっぱりした姿で登場するところや、軽快とはいえないけどメジャー仕込のボテボテのゴロを素手でキャッチングする守備などゴメスにうっとりするポイントを挙げていくと止まりません。あと、巨人戦に滅法強いのがめちゃくちゃ良いです。特に桑田相手には無類の強さを見せていました。(データ探したけど見つからず・・・)
ちなみに、私事ですがauの携帯を高校生から今年までずっと使っていたのですが、アドレスは応援歌から抜粋してずっと「major-da-gomez」というワードを入れているくらい好きでした。社会人1年目に同期にこの話をしたら10人中9人が「誰それ?」で1人が「じゃああだ名はゴメスだな」と言われたのも苦い思い出。ゴメスの話がだいぶ長くなりました。2001年を振り返る際にもう1度話題になる予定なので今回はここら辺でおしまい。
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衝撃のシーズンオフ
そして、オフに衝撃が。阪神との間で、大豊、矢野と関川、久慈のトレードが成立しました。合わせてパウエルも退団です。課題である機動力と守備力の補強、そして大砲とパウエルの打棒に衰えが見えてきたことに加えて広い球場に変わったこと。
今となってはこのトレードと退団が必然であることは理解ができることなのですが、恐竜打線の中核のパウエルと大豊、特に中日ファンになったきっかけである大豊の退団は少年であった当時の私にはショッキングでした。
ナゴヤドーム野球へのシフトの成功と新人王
ドラゴンズファン少年の心を揺るがせたトレードも、ふたを開けてみるとしっかりとナゴヤドームという環境にフィットしていることが分かりました。1998年はその効果が如実に現れた年です。
ナゴヤドーム野球へのシフト
一発長打狙いで点を取りまくる粗い野球から、しっかりと1つ先の塁を狙ったり、守備もきっちりとやる野球へのシフト。前年オフに獲得した関川と久慈という2選手が確実に機能していました。また、韓国のイチローこと李鍾範が加入したのもこの年。ただ、この年に加入した選手でもっと語らなければいけない選手が1人。
新人王 川上憲伸
そう、川上憲伸です。星野監督の大学の後輩であることもあり、逆指名で1位入団。この後、00年代のエースとして君臨することとなします。これまでのドラゴンズというのは、全国では実に無名です。勝とうが負けようが取上げられることは皆無です。右打者として3年連続で首位打者という球史に残る活躍をしたパウエルなんて、気の毒なくらいどこも取上げやしません。
が、この年は状況が少し違います。明治大学の川上憲伸・慶応大学の高橋由伸という6大学リーグの時代のライバルの構図が、プロに入団しても引き継がれます。現役時代から巨人に立ち向かう最右翼の燃える男・星野が率いるドラゴンズにいる川上。当時はまだ絶対的な存在であった巨人の高橋。そして両者とも新人とは思えない活躍を見せるわけです。
この構図にマスコミも注目し、ドラゴンズが注目を浴びることに。日テレ系の番組で川上のコーナーができると言う異常な事態です。川上は当然すごいのですが、やっぱり星野氏の政治力というか影響力がすごかったのだなと今改めて思うことです。
この2人は共に新人とは思えない成績を残すわけですが、阪神の坪井に広島の小林幹英という2選手も新人離れをした成績を残し、近年稀に見るレベルの高い新人王争い(翌年も同等以上にとんでもなくハイレベルになるのですが・・・)が繰り広げられます。
しかし、川上と高橋はやはり頭1つ飛び出ている成績。この両者どちらが新人王を取るのか。明暗を分けたのは直接対決でした。川上はシーズン開始から最終対決まで1本のヒットも許さずに圧倒したことが決め手となり、川上が新人王を獲得。しかし、ホームランを放ち一矢報いた高橋の意地もなかなか見所がありましたね。(最終的に22打数1安打)
1998年という年
さて、この98年は横浜ベイスターズが38年ぶりに日本一になり、高校野球では松坂擁する横浜高校が春夏制覇を達成した横浜イヤーです。中日はそんな中惜しくも2位の成績。負けた悔しさも当然ありますが、前年の最下位から比べると大躍進です。思えば、前年オフに敢行したナゴヤドーム野球への舵きりは大成功だったわけです。
いくら最下位に落ちた状況とは言え、あれほどの大変革をできるのは中日OBを見回しても星野氏しかいなかったでしょう。(というか、中日OBはしがらみが多すぎて、微妙な人材しかいません。)ここでの転換が黄金期を迎える落合政権下の礎になった気もしますし、そもそも落合氏が監督に就任するために必要な中日への入団も星野氏が行った大型トレード無しには実現しなかったことでしょうし、やっぱり星野氏は凄いと今なら思えます。
この後語る、阪神監督就任とそれに関わるやり方や北京での所業には多々思うところはありますが、その功績はやっぱり凄いなと。でも、その功績を手放しで讃えるほど心のわだかまりが無いかというとそれも嘘になる。例えが難しいですが、この中堅以上のファン歴を持つ中日ファンが星野氏へ持つ感情は、熟年離婚した相手に抱くような感情に似ているのかもしれませんね。
そんな星野氏も今年の初めに亡くなってしまいました。思うところは色々とありますが、やはり寂しいものです。今更ですが、ご冥福をお祈りいたします。次回はそんな星野氏が自身が優勝した1988年以来11年振りに宙に舞った1999年について語ります。
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